ブラックすぎるにもほどがある! – 某有名Web広告代理店ベンチャー – ブラック企業体験談
ITベンチャーでガチャを売るビジネスをするということ
「沖田君は、そこの植木鉢の土、食べてでも、売上達成するよなぁ!?」
ぼくより1歳ばかり年上で今年31歳になる社長の高沢が、あごを突き出すようにして、さも経験のある経営者風の態度で喚いた。
1年ほど前から、この男と付き合いのあるメンバーで、ぼくと同じ境遇の、いじめられ役はうつむき、その対局にいる者はさも当然といった体で上から見つめる。
高沢と同じ目線を向けてくる男、寺光(この男は、数年後に高沢を代表の座から引きずり下ろし自身が社長となる)が、当時は社長の忠犬、グッドシェパードだ。高沢より一つ年上で32歳。
「で、今回のガチャ売上のショート分に関する分析とナレッジはどうなってるの?」
畳みかけるようにして、高沢が怒鳴りつけてくる。
午前0時までのデータを、翌朝8時のミーティングに間に合わせるため、徹夜で集計を行い、分析結果を報告している。勤務時間は、40時間を超えていた。この前に家に帰ったのは3時間程度。すでに30日連続で勤務している。
報告された内容は現状の分析と今後の計画の詳細が書かれていたが、高沢の求める内容ではなかったのだろう。加えて、本社から事業を持って自分の子会社に転籍してきた人間が気にくわないのだろう。
売上を回復するために協力しようといった態度は一切みられず、ただひたすら、目標未達を責め立て続ける。
「だからさぁ、”ナレッジ”にならないことやられても、会社のノウハウにはならないんだよ。わかってんの?!ああ?!」
最近、どこぞのIT関連会合で、ナレッジという言葉を仕入れてきたらしい。
ナレッジ、ナレッジと、8回ほど聞いたところで、ミーティングは終了した。
「本社から、事業移管してくるのは良いんだけどさ、儲かる方法も聞いておいてくれないと」
嫌みと思っているのか、本心なのか、会議はそんな言葉で締めくくられた。
ミーティング終わりに、ぼくのフォローを指示された寺光が近寄ってくる。
「ガチャが売れない理由、分かってるよね?」
30代そこそこの経営者とその側近、しかもオンラインゲームを中身ではなく集金ビジネスとしてしか見ていないような連中にまともなフォローは期待できないのは、転籍後、数日ですぐにわかった。
あくまで、フォローされているポーズだけとらせると、安心したようにさっさと会議室を出て行った。
ちょうど、韓国産のオンラインゲーム「リネージュ」が大ヒットして1年ほど経っていた。各社ともこれに続けと、韓国のオンラインゲームを輸入してはリリースしていたいあの頃。
ぼくは、中堅どころのアダルトコンテンツ配信とケータイアプリ事業を半々に生業としている上場企業から、当時、渋谷にあった某超有名Web広告系ベンチャーに転職した。
その本社で、始めはこれも当時流行だった懸賞サイトの運営に携わりながら、当時では珍しいブラウザを使用した多人数参加型のオンラインゲームの事業化進めていた。
そのまま、本社内で事業化と収益化を行えれば、本社から来る人間を煙たがる高沢のような社長の運営する子会社に転籍して事業継続しなくても良かったのだが、そこは若い連中が取り仕切るベンチャー企業。
表面は、有名老舗企業も恥ずかしくなるような建前と演出で世の中にアピールするが、実際の中身は大学サークル活動の延長かそれ以下だ。
超有名Web広告ベンチャー企業の中身は乱痴気サークル活動
本社在籍中の話だ。
本社に入社当時から、アルバイトへのいじめが嫌と言うほど目につき、そのやり方がいちいち、頭の良さそうな大学生っぽく、正直にかなり鼻ついていた。
ある日、その筆頭、私の所属する事業部の部長が歓送迎会のプランと称してアホな提案を行ってきた。
こいつは某有名ラジオ局から28歳で転職してきた在籍1年目の若造で、何かというとあちらの業界的な雰囲気を持ちこもうとする。そういえば、こいつは、ぼくの人生で初めての、年下の上司となった人物だ。
「歓送迎会は、リムジンバスを借りて宴会をしながら、都内をまわろう」
ここまでなら、まあ、小生意気な連中だなくらいで済んだのだが、
「高速道路の途中で一人、ママチャリと一緒に降ろして、帰ってくるところを、ケータイで実況中継させよう」
側近と思われる連中は、さも楽しげに賛同し、心ある者は曖昧に笑った。
どちらにしても、このバカ部長がこういうことを言い出したら、止まらないのは皆わかっていた。
生まれた時からすべての自分のわがままを親に受け入れてもらっていたような、そんな性格である。
ある意味、精神的な欠陥を持っていたのかもしれない。
もちろん、高速の途中で降ろすのは、いつもいじめられているアルバイト君だ。
歓送迎会まで、話は二転三転したようだった。最終的には、社員を一人付けておかないと、ちゃんとママチャリで帰ってくるか分からない、そして何かあった時の責任問題がヤバい(やっていることがヤバいと気がつけよ)ってことになった。
在籍の長い社員−−−とはいっても、皆入社して、長くても1年程度のの連中ばかりだなのだが、頼まれた連中は、何かと理由を付けて断ってしまう。
そうこうしているうちに、歓送迎会当日に入社2ヶ月のぼくに話がまわってきた。
「沖田さんも、この辺でみんなにアピールしておかないと」
新参者のくせに、断らないよな?といった雰囲気も織り交ぜて、その部長はそうのたまった。
その時点で、
「こいつ、オレにケンカ売ってんな」
と思った。
もう、“ぼく”なんていってられないのである。このバカを二度とこの業界で働けないようにしてやろうと本気で思った。
「ええ、いいですよ」
にこやかに微笑んで快諾すると、当日、さすがに周りの連中が心配する中、アルバイト君とオレは、お台場辺りの高速道路の途中で、事業部長が会社まで乗ってきた自前のママチャリ(そこまでしてこんなことやるか?)と一緒に降ろされた。
申し訳なさそうに、
「すいません。僕のせいで、なんかこんなことに付き合わせちゃって」
と言う彼を見ながら、「そんなんだから、いじめられるんだよ」と思わなくもなかったが、しばらく歩いて高速バスの乗り口から一般道にママチャリを降ろすと、
「ママチャリ、そこのガードレールに繋ぎな」
と言った。
事業部長の報復にビビる彼を説得するのに骨が折れたが、ケータイの電源もオフにして、暫く茶店などで時間をつぶし、リムジンバスが会社に戻る頃を見計らって、ママチャリはチェーンでつないでその場に置き去りにして、我々も戻った。
顔を赤くして猛り狂う事業部長(29)を
「ヤンキーに絡まれて大変だった」
といった理由でやり過ごして帰宅。
翌日出社すると、すぐに話をしたこともない副社長の内線に電話を入れた。(社長の場合、秘書が取り次いじゃうのでめんどくさかった)
この人は、オレと同年代だが、社長と一緒でIT広告業界でも有名な人だ。
さすがに良識のある人らしく、幾人かの証人とともに話をすると、すぐにわかったようだった。
その後の関係者への事情聴取でわかったことは、リムジンバスの中もひどかったらしく、男性社員の下半身を露出させて、女性社員に写真を撮らせるなど、乱痴気騒ぎだったらしい。
事業部長は即解雇、オレとしては、懲戒免職にして、履歴書の賞罰欄にきっちり焼き印を押してやりたかったが、会社としての対面を慮ったのだろう。
問題児を追い出したまでは良かったが、その後、オレのいた事業部は会社にとってもそれほど重要なものでなかったらしく、懸賞サイト自体は他社へと売られることになり、お取りつぶしとなることになった。
もともと、その会社は、毎月何十人と退職者が出ており、だいたい辞める人数分を毎月入社させている状態だったので、事業部がなくなって、半数近くは会社を去り、残りは別の部署に移っていった。
オレは、自ら事業を立ち上げようとしていたこともあり、その事業自体が前職で知り合った経営者の方も巻き込んでしまっていたため、辞めることもできず、かといって、異動先もなかなか見つからなかった。
困ったことに、どんなに悪いやつでも同じ穴の狢を刺すと、あいつは他でも何かあったら上長を刺すぞ見られてしまう。
別に、正義のためにやったわけではないが、こういうことをする人間は、社会では往々にして、差別を受ける。
たらい回しにあった挙げ句、グループ内でオンラインゲーム事業を主体としている子会社に、事業ごと引き取られ、オレは転籍することになった。
死はいつもとなりにある
そんなこんなで、転籍先の子会社の社長、高沢からも疎まれてしまい、事業が軌道に乗るのを見計らって、この有名ベンチャーITグループを辞めることになる。
途中、オレが受けた某有名ゲーム誌のインタビューの名前がすべて別の人物の名前に差し替えられてしまったり、せっかく育てた部員を全員とりあげられてしまったりと、色々ないじめにあった。
本社の命令でサーバーをライブドアに全て移転した直後に、ホリエモンが捕まったせいで、1ヶ月足らずで別の会社に移転しなければならなかったりした。
毎日、売上達成を追求され、目標達成すると、次の目標値を突然数倍に変更される。
なんか、痩せてきたなと思ったら、売上に追われ3日ほど飯を食うのを忘れていたこともあった。
他の事業に携わる人達も大変だった。
渋谷の不夜城と呼ばれていた時代だ。
毎日、売上げに追われ、数字を作ることに躍起になっていたオレは、朝の4時頃に呆然と9階の窓の外を眺めていた。
別の机では、オレと同年代の男が、やはりこいつも別の案件で追い詰められおり、良い年をして机で上を向いて泣きじゃくっていた。
青い光が部屋を照らす中、
「今、ここから飛び降りちゃえば、8時の会議にでなくて済むんだよなー」
とごく自然にそう思い、下に吸い込まれそうになった。
「あ、ヤバい、ヤバい、これは、ヤバい」
すんでの所で、気がついた。
死は意外と近くに潜んでいる。
元来、中学高校と男子校に6年在籍して、もっとアホな連中と付き合いがあったのが良かった。
ヤバい時は100メートルダッシュで振り向かずに逃げるに限る。
泣きじゃくる彼に、「オレ、辞めるわ」と言い、「これ以上ここにいると死ぬぞ」とも言った。
彼も、オレと同時期に退職した。
これは、オレが某有名Webベンチャーに転職した時の話だ。
クリエイターとして独立して、自分の作品で食っていくといった夢にも良い加減、年相応の言い訳が出来るような年頃になって、なんで、こんな話を書こうと思ったのかーーー
24歳の頃、せっかく入社した超大手企業を1年足らずで退職して、Webデザイナーのアルバイトとしてスタートしてから、ディレクター、プロデューサー、事業マネージャー、一部上場企業の経営戦略室等を経て、20年以上IT業界にいる。
大手から中小まで、計10社以上を渡り歩いてきて思うのは、いつの時代になっても、本質はあまり変わらないということだ。
人は同じ過ちを繰り返す。
政府主導で労働環境の改善が推進され、ブラック企業撲滅が叫ばれても、経営者も従業員もやっぱり同じ事を繰り返す。
なら、これまでの経験を書いておけば、もし、24歳当時の頭にお花パッカンのオレみたいのが読んでくれれば、これからの人生を考える上で少しは足しになるんじゃからろうかと思ったからだ。
転職口コミサイトでは書かれない、具体的な出来事を中心に書いていこうと思う。
年代は前後するし、IT業界では古い時代の話になってしまうかもしれないが、これまでの各社での出来事や経験、各業界内での仕事内容が少しでも役に立てばと思っている。
この年になって、経験もそれなりに積み、ポジションを得ても、今だに、先はわからない。
不安な点は、皆と一緒だ。
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